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 ここ、川中島と言いますのは現在地より南に1km行きますと大きな川「千曲川」があります。また、現在地より善光寺へ向かって4kmほどの所に大きな川「犀川」があります。この犀川と千曲川の交わっている中州ですから、川の中の島「川中島」と言います。
 武田信玄が何故ここで戦ったかというと、長野は日本の屋根に当たると言われておりますように、この地域は何でも採れる穀倉地帯であります。ですから人口もありました。
 武田信玄は、この信濃の食糧と兵力を手に入れ、そして京に上り天下を取ろうとした大きな野望があったのです。ここより30km程南に上田と言う所があります。上田から南、上田・小諸・佐久・軽井沢は武田軍の領域でありました。上田から北は上杉軍の領域でありました。その上杉軍の領域にありました、村上義清の葛尾城を武田信玄が襲ったことで、村上義清が上杉謙信に救いを求めたことから川中島の合戦が始まったのです。

 八幡原で今より444年前武田信玄と上杉謙信の戦いでの戦略は、自衛隊にも参考にされている程、あまりにも有名で戦史に残る一戦でありました。ここ八幡原の現在地はここです。

 武田信玄の築いた海津城はここ八幡原より直線で約3kmです。それに対し上杉謙信が本陣を構えた妻女山も、この八幡原より直線にして3.5km程です。又、妻女山と海津城の距離は1.5kmです。妻女山からは海津城の動きが一望できますが、海津城からは妻女山の動きは見えないのです。

 永禄4年9月9日 武田信玄はキツツキ戦法という戦略を立て、妻女山に陣取る上杉謙信に1万6千の軍勢で山の背後より攻め込み、驚いて山を下って来た上杉軍を4千5百の兵力でここ八幡原で迎え撃つというと言うそれが世に言うキツツキ戦法です。

 このキツツキ戦法を考えたのは信玄の参謀であり軍師である山本勘助です。山本勘助はこのキツツキ戦法を考え、武田信玄に進言し実戦に移したのです。また、築城の技術に長け、海津城や小諸市の小諸城、また桜の花で有名な高遠城等を建てた、立派な武将でありました。




 武田信玄はここ八幡原の本陣で上杉謙信を迎え撃つとしていたのです。
 ところが妻女山の上杉謙信は海津城の動きをいち早く察知し、背後より武田軍が来る前に妻女山を下り、ここ八幡原の武田信玄本陣に濃い霧にまみれて攻めてきたのです。
 その当時は今のように地球温暖化でなかったので、9月10日でも千曲川・犀川という大きな川がある為、この辺一帯は濃い霧に包まれていたのです。

 日が昇り、霧が晴れ始めたと思ったら、予想だにしなかった時刻の上杉軍の攻撃で大パニックとなり、武田信玄の前を守っていた信玄の参謀でありました、信玄の弟の武田信繁や山本勘助、諸角豊後守他、信玄のそうそうたる幹部が命を落としたのであります。





   不意を突かれ手薄になった武田本陣のスキを見て、ただ一騎、上杉謙信は疾風の如く長光の太刀を抜き放ち、馬上より信玄めがけて、エイ!信玄は軍配で受けたが、続く二の太刀で腕を、三の太刀で肩に傷を負ったのであります。
 後でこの軍配を調べたら、刀の跡が7カ所も付いていたことから、この一騎打ちの跡を三太刀七太刀の跡と言われております。
 この時、川中島の露となろうとした、武田信玄の窮地を救ったのは仲間頭の原大隅で、間一髪、そばにあった信玄の槍青貝で馬上の謙信めがけて エイ!と突き出したが謙信の肩の上に逸れてしまい、「無念なり」とうち下ろしたが、又も謙信に刀で払われてしまい、勢いついた槍は謙信の馬の三途をしたたか打ったため、馬は驚きはね上がって狂ったようにその場を逃げた為、信玄は危うく一命を免れることが出来たのです。
 一方、謙信を討ち損じた原大隅は、「無念なり」と傍らにあった石を槍で突いて開いた穴と言われております。

 上杉謙信が武田信玄に塩を送ったという話がありますが、それは上杉軍が後退した後、武田信玄が海津城の城主である高坂弾上に命じ、敵・味方無く兵士の亡骸を埋葬してあげたのです。この山もその一つで「首塚」と言います。
 山梨県は長野と同じく海が無いので塩が採れません。ちょうどその年は大変な塩飢饉に陥っておりました。それを聞いた上杉謙信は武田信玄と戦ったのは弓矢・刀であり、塩・魚ではないと大変感激をして、越後の塩を敵の大将武田信玄に送ったという有名な話であります。





 武田信玄は1651年9月9日夜、ここ八幡原に本陣を構えるにつき、土塁を作りました。
 土が盛り上がっているのが、本陣を作ったときの土塁の名残です。升形(ますがた)陣形と言います。
 今は、土塁も崩れて小さくなっていますが、本陣を構える時に作った土塁の土留めに自生していた槐(えんじゅ)の木を杭として、根の方を上にして打ち込んだのが芽を出し、このような巨木に成長したので、逆槐(さかさえんじゅ)と呼ばれております。
 

 この八幡社の御祭神は 誉田別尊(ほんだわけのみこと)、建御名方命(たけみなかたのみこと)が祀られております。
 武田信玄は八幡社様を中心として本陣を構え御祈願した為に命を免れたと言われております。

 永禄4年9月10日の戦いの後、3年後に千曲川を挟んで両雄にらみ合いを3日間続けましたが、両雄相まみえることなく、どちらからともなく双方引き下がったのです。
 それは、戦いを嫌い平和を望む八幡社様の強いお力が成したことと、現在に語り継がれております。
 八幡社の御祭神であります誉田別尊大神様は、第15代の応神(おうしん)天皇様であります。応神天皇は中国・朝鮮より文化を取り入れまして、日本の発展の為に大変寄与されました。
 亡くなられた後は日本全国にあります八幡社・八幡大社・八幡大武神・弓矢大神と言う名の神社はすべて誉田別命大神様が御祭神として祀られております。

 一方 建御名方命の大神様は、島根県の出雲大社の大国主命の2番目のお子様で、長野の諏訪に来られまして、諏訪地域を開拓されました。亡くなられた後は、諏訪大社として祀られております。日本全国にあります諏訪大社はすべて建御名方命の大神様が御祭神として祀られております。

 このように力強い両祭神が祀られているお宮は他にはありません。
 皆さんあらたかで力強い八幡社様にしるしをお供えして、明るい健康と幸せを願って参拝されたらと思います。御札・お守りは社務所にて販売されております。

 この御神木であります欅(けやき)の木は樹齢7百年に至っており武田信玄と上杉謙信の一騎打ちを見ていました。
又、その当時の手柄の証は首でありました。朝の戦いでは圧倒的に上杉軍が優勢でありました。頭一つは6kgあります。4首も取れば24kgです。
 上杉軍は首を取り引き上げている時に、妻女山の背後より下ってきた武田軍の追手に討たれたと言われております。激戦は半日ですが、その半日の戦いで上杉軍が3千5百、武田軍が4千5百、合わせて8千人の命がこの地で亡くなられております。ですからここより300m位行きますと5m位の川が血で真っ赤に流れたとのことで「赤川」と言う名前になっており、又その先には後で取られた首と胴を洗って合わせたと言われて「胴合川」と言う名前になっております。一説には山本勘助の首と胴を洗って合わせた事から「胴合川」と付けられたとも言われております。

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